年金繰り下げ 「損得」を見極める5つの注意点

年金をもらい始める時期を遅らせて受取額を増やす「繰り下げ」の注目が高まっている。人生100年時代に備えた資金手当てに有効との考えからだ。ただ、増額率などの「おトク感」ばかりが先行し、制度の仕組みや内容はあまり知られていないのが現状だ。

■支給開始遅らせ 5年で最大4割増〜「繰り下げ派」じわり増加

東京都内に住む沢木明さんは68歳。51歳で勤め先を早期退職し、社会保険労務士として独立した。自宅事務所での相談業務に加えて企業や自治体のセミナーの講師として全国を駆け回る。本来なら65歳から支給が始まる年金はまだもらっていない。「65歳時点の年金額は年200万円程度で以前の勤め先の同僚より30万円ほど少なく、悔しい思いをした。70歳まで繰り下げれば約280万円に増える」。繰り下げの仲間を増やしたいと各所で利点を説く。

平均寿命は女性の方が長い(東京・豊島)

年金の支給開始は原則65歳だが、希望すれば60〜70歳の範囲で選ぶことができる。65歳より早くもらうのを「繰り上げ受給」、66歳以降に遅らせることを「繰り下げ受給」と呼ぶ。月単位での変更が可能で繰り上げは1カ月ごとに年金額が0.5%減り、繰り下げは同0.7%増える。最も早い60歳まで繰り上げると30%減り、上限の70歳まで繰り下げると42%増える。そしてもらい始めたらその金額は一生続く。

繰り下げは支給開始を遅らせるだけで金額が年約8%、5年で4割以上増えるおトクな仕組み。だがこれまで実行した人は少ない。厚生労働省の調査(2016年度)によれば、国民年金の受給権者(老齢厚生年金の受給権はなし)に占める割合は繰り上げ34%に対して繰り下げは1%台。制度自体の認知度が低いことに加えて、遅らせている間は無年金で耐えられるだけの経済的な余力が必要だからだろう。

ただ、新たに国民年金の受給権を得た人(新規裁定)でみると、繰り上げが大きく減っている半面、繰り下げは12年度の1.2%から2.7%に増えた。厚生年金では繰り下げ比率は1%台だが、人数では毎年度1万人以上増加している。「繰り下げ派」がじわり増しているといえそうだ。

長生きするシニアが増える一方、年金の原資となる保険料を負担する現役世代が減っていく現状を映した。先細りする年金額を少しでも増やしたいとの思いが強まっているのだろう。国が2月にまとめた「高齢社会対策大綱」では繰り下げについて、さらに70歳以降の受給開始も選択できるように検討するとした。70歳超に繰り下げた場合は増額率を月0.7%より積み増す。新制度は19年の公的年金の財政検証を踏まえて3年程度で導入する見通しだ。

具体的な手続きはご存じだろうか。そもそも年金は、原則として年金事務所で手続きをしないと支給は始まらない。何もしなければ支給開始は66歳、67歳と延びていき、自動的に繰り下げになる。事前に時期を決めておく必要はなく、もらい始めたいときに手続きをする。先延ばしの間は方針変更も自由だ。70歳まで繰り下げようと思っていた人が、途中で健康に不安を感じて早めの68歳からもらい始めたいと思ったら、その時点で手続きをすればよい。

受け取り方は2つ。「繰り下げによる増額請求」と「増額のない年金を遡って請求」のどちらかを選ぶ。68歳からもらう場合、前者は約25%増えた年金額をもらい、後者は65〜68歳までの期間にもらえるはずだった金額を一括で受け取り、以降は増額のない本来の年金額をもらう。起業や家のリフォームをしたり、病気になったりしてまとまった金額が必要になったら後者が有効だろう。人生設計や懐具合に合った選択が可能といえそうだ。

老齢厚生年金は現在、支給開始年齢を段階的に引き上げており、65歳より早くもらえる人もいる。繰り下げの対象は65歳に受給権が発生する年金なので、この「特別支給の老齢厚生年金」は繰り下げできない。そして65歳からの年金は繰り下げの申し出ができるのは1年後の66歳からだ。

厚生年金の受給者は老齢厚生年金と老齢基礎年金を同じ時期だけでなく、別々の時期に繰り下げることもできる。ただ、別々にもらい始めるならその都度手続きをする必要がある。また老齢厚生年金を繰り下げる場合、厚生年金基金があるなら、基金にも繰り下げの届け出をする必要がある。

見落としがちな注意点をチェックしていこう──。

■注意点1 長生きすればメリット 得になるのは、もらい始めて12年後

繰り下げは長く生きるほど効果がある。増額率は大きいが、増えた年金を受け取り始めてもすぐに本人が亡くなるような事態になったら、65歳からもらった方がよかったということになりかねない。

検討の際によく取り上げられるのが「損益分岐点」だ。繰り下げた場合の受取総額が、65歳からもらった場合の受取総額を上回る時点のことで、もらい始めてからおおむね12年とされる。70歳まで繰り下げたら82歳まで生きればおトクというわけだ。

ただし、自分がそれより長く生きるかどうかは分からない。平均寿命を参考にすれば、男性は81歳で女性は87歳。ちなみに65歳時点の平均余命は男性が約19年で女性は約24年(いずれも2017年)。それぞれ84歳と89歳まで生きる計算だ。こうしたデータをみると、女性は70歳まで繰り下げても損をしない人が多そうだ。

そこで社会保険労務士やファイナンシャルプランナーらが薦めるのが、妻の年金の繰り下げだ。年金をはじめとする老後のお金は、配偶者がいるなら夫婦ワンセットで考えたい。社労士の森本幸人さんは「夫婦では夫が先に死ぬケースが多いので、あとに残る妻の年金を繰り下げて増やしておきたい。先延ばしの期間は夫婦で働いて収入を得るなどして対応したい」と話す。繰り下げるなら老齢基礎年金が有効だ。

■注意点2 加給年金など加算部分は対象外 失う金額と増額分見比べて

繰り下げて増えるのは年金の本体だけだ。夫婦では、老齢厚生年金の家族手当にあたる「加給年金」という加算額が夫に付く場合が多い。ただこの加算部分は増額の対象外だ。

加給年金は厚生年金に20年以上加入した夫が65歳になったときに年下の妻がいれば、妻が65歳になるまで夫の厚生年金に上乗せされる。年額で約39万円と決して小さくない。しかし、老齢厚生年金を繰り下げるとその間はもらえない。仮に5歳以上年下の妻がいる夫が70歳まで繰り下げると、5年分の計200万円近くを失うことになる。

「加給年金が付く場合、配偶者の年齢に応じた加算の合計額と繰り下げによる増額分を見比べる必要がある」と前述の社労士の沢木さんは話す。自身は「妻との年齢差は1歳だったので、繰り下げで失う加給年金よりも増額のメリットの方が大きいと判断した」という。加給年金は厚生年金に連動するので、失うのが惜しければ老齢基礎年金だけを繰り下げ、老齢厚生年金を繰り下げなければ受け取ることができる。

夫の加給年金は妻が65歳になると妻の年金の「振替加算」に切り替わる。こちらは妻が年上でも条件を満たせば夫が65歳になったときから妻自身の年金に付く。この振替加算も増額の対象外だ。年金を繰り下げている間は受け取ることができない。金額は妻の生年月日で異なり、年額で約1万5000〜22万円台(1966年4月2日生まれ以降はゼロ)と幅があり、受け取り始めれば一生続く。年齢が高い人ほど金額は大きいので、繰り下げを利用するなら、やはり増額分と見比べて検討する必要があるだろう。

■注意点3 税金や社会保険料も増える 「手取り」では目減りも

70歳まで繰り下げると年金額は42%増えるが、実はこれは「額面」の数字だ。年金額が増えれば、税金のほか、健康保険や介護保険といった社会保険料などが増える場合が多く、その分「手取り」は目減りする。

男性の平均賃金で40年間会社員をしていた人が65歳で受け取る年金額は約188万円(厚生年金と基礎年金の合計)。70歳まで繰り下げれば42%増の266万円となる。この金額を基にみずほ総合研究所の上席主任研究員、堀江奈保子さんが東京都世田谷区を例に手取り額を計算すると、単身世帯は65歳で169万円、70歳で229万円となり、増額率は35%だった。妻がいる夫婦世帯だと、夫の年金の手取り額は65歳が177万円、70歳で234万円となり、増額率は32%。ともに42%には届かなかった。前述の損益分岐点でみると、総額が上回るのは単身世帯は84歳、夫婦世帯の場合は85歳となり、額面より2〜3年遅くなる。

税金や社会保険料は、そもそもの年金額や他の収入、扶養家族の有無、各種控除、居住地域などで変わる。そのため手取りの増額率は個人で異なる。知っておきたいのは70歳まで繰り下げても、増額率は手取りでみると、4割に満たない場合があることだ。一方で年金収入が増えれば「医療保険や介護保険の負担割合が変わり、世帯の支出が膨らむこともある」と堀江さんは注意する。

■注意点4 遺族年金は増えない 65歳時点に戻って計算

年金受給者らが亡くなったときに家族に支給される遺族年金でも注意が必要だ。まずは65歳になる前に遺族年金を受給していると、自分の老齢年金を繰り下げて増やすことはできない。繰り下げができるのは、原則として他の年金の受給権が発生するまでなので、すでに遺族年金をもらっていると繰り下げの仕組みは利用できない。障害年金を受け取っている場合も一緒だ。

老齢年金を繰り下げて増額した人が亡くなるとどうなるか。仮に66歳以降に繰り下げて増額した年金を受け取っていた夫が亡くなった場合、妻らは増額した年金を基に計算した遺族年金をもらえると思いがち。だが、実はそうではない。遺族年金は夫が65歳時点でもらうはずだった本来の年金額に戻って計算する。「繰り下げで遺族年金が増えることはない」と社会保険労務士の望月厚子さんは話す。

望月さんによれば「繰り下げしようと待機していて途中で死んだら、遺族は増額した年金を受け取ることができるかという質問も多い」という。この場合も遺族年金は65歳時点の本来の金額で決まり、待機中の分も本来の金額で計算し、「未支給年金」として家族に別途支払われる。

仮に妻が自分の厚生年金を繰り下げても、その後夫が亡くなって遺族厚生年金をもらう場合、増額効果がないに等しくなってしまうこともある。夫が亡くなると妻は(1)自分の老齢厚生年金(2)夫の老齢厚生年金の4分の3(3)自分と夫の老齢厚生年金の半分ずつ──の中から多い年金額をもらうことになる。そもそもの妻の厚生年金額が少なければ、たとえ繰り下げて増額してもやはり(2)が最も高額となり、繰り下げても繰り下げなくても結果は変わらないというパターンがあるからだ。

■注意点5 「在職老齢年金」による調整 支給停止部分は増額なし

高齢になっても働き続けて高収入を得る場合に見落としがちなのが「在職老齢年金」による調整だ。シニアが厚生年金に加入して働いて給与や年金額の合計が一定の基準を上回ると、厚生年金の一部、または全額を停止するのがこの制度だ。65歳未満の「低在老」と65歳以上の「高在老」に分かれるが、繰り下げで注意するのは高在老の方だ。待機期間中も65歳時点の本来の老齢厚生年金額に対してこの制度が適用されるので支給調整が発生する。

結論からいうと「繰り下げで増えるのは支給停止されなかった部分だけ。支給停止部分は増額の対象外」(社労士の望月厚子さん)だ。

 65歳以上の支給調整の基準額は、月収(給与・賞与合計の月額換算)と本来受け取れる年金月額の合計で46万円(2018年度)。この基準額を上回ると超過分の2分の1が年金月額から差し引かれる。例えば年金が月20万円の場合、月収26万円を超えると減額が始まり、66万円を超えると全額支給停止となる。そもそもの基準額が高いので、企業の役員やオーナーなど収入が多い人が対象だろう。

この場合は65歳以降も厚生年金に加入して働くので70歳までの在職期間に関しては、その分の老齢厚生年金額が上積みされる。ただし、上積み部分は繰り下げ増額の対象にはならない。



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