沈黙―サイレンス―

弱い者の 居場所は どこにある?

権力を握った者たちが、意に沿わない個人に対してすさまじい暴力を振るう状況になったら、どう生き延びたらいいだろう。内面の自由をどう守ればいいだろうか?

白バラなどの抵抗運動や戸坂潤、大杉栄らいろいろな生涯に思いをはせ、できることならば堂々と胸を張り、顔を上げ、ひるまず、屈さずにいたいのだけれど、実際は事態が深刻になったら(いやそうなる前にさっさと)、そんな態度はかなぐり捨て、すたこら逃げ出すだろう(自信がある)。暴力を振るうぞと脅されたらたちまち震えるし、見苦しくへらへら愛想笑いし、とぼけるだろう。自分は弱いのだから。

1640年、ポルトガルのイエズス会に日本から手紙が届く。高名なフェレイラ宣教師が幕府のキリシタン弾圧に屈し、信仰を捨てたという。弟子のロドリゴ神父たちは信じられず、事実を確かめに日本へ向かう--。

マーティン・スコセッシ監督は、遠藤周作の小説「沈黙」を読み、28年前に映画化を決意したのだそうだ。育ったニューヨークの街は犯罪者が多くいた。作品パンフによると「たくさんの善人が悪いことをするのを見てきた」監督は罪の償いについて考え続けていて、この小説に出合った。時間をかけて完成させた今「この時代の、この世界においてこそ、作られねばならなかった」と語っている。

捕らわれたロドリゴの目の前で、信徒たちは拷問され、海に沈められ、首をはねられる。ロドリゴは苦悶(くもん)し、錯乱しながらも棄教に応じない。信仰を貫く一点こそが、地獄のような状況に耐える唯一のよりどころだったからだ。(それにしても現在の「IS」の残虐行為とともに、首をはねる行為が江戸期だけでなく、植民地支配や戦争の時期を含めて身近にあったことを思わずにいられない)

ロドリゴの前には、踏み絵に応じ、仲間を裏切る信徒キチジローが現れては消える。裏切りへの許しを請われ、ロドリゴは内心で軽蔑しながらも、受容することを繰り返す。すさまじい拷問よりも、その受容が彼にとっては難しい試練になっていく。弱い者の場所はどこにあるのか。この世の中で--。そうキチジローに問われて苦しむロドリゴ。弱さを受け入れ、自分が抱いてきた信仰のあり方と折り合いをつけられるのか。緊迫した状況がラストまで続く。TOHOシネマズ高知で上映中。




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